日本バングラデシュ協会 メール・マガジン 95 号(1971 年 12 月・1972 年 1 月)I.論考:1) 『日本とバングラデシュの関係のはじまり』理事 太田清和
日本バングラデシュ協会 メール・マガジン95号(1971 年 12 月・1972 年 1 月)
日本バングラデシュ協会の皆様へ
バングラデシュの独立に寄り添う(1971 年 12 月・1972 年 1 月)特集号
―第三次印パ戦争とバングラデシュ独立-
I.論考:太田清和
1) 『日本とバングラデシュの関係のはじまり』
・東京新聞『ベンガルを支持して!留学生ら外務省に悲痛な訴え』(1971 年 12 月 7 日)
2) 『第三次印パ戦争と日本の国連外交』
3) 『在留邦人のダッカ脱出と桧垣総領事の残留』
Ⅱ.寄稿
1) 南出和余『独立戦争のメッセージを伝え続けるバングラデシュ映画』
2) 桐生稔『独立前後のバングラデシュ-歓喜と懸念-(その3)』
3) 辻康吾『あの人々はいま、遥かなバングラディシュ』
4) 吹浦忠正『ムジブ・ラーマンのダッカ帰還』(再掲)
・写真:空港よりラムナ競馬場へのパレード(1972 年 1 月 10 日)
・写真:ムジブ・ラーマン帰国演説(1972 年 1 月 10 日、ラムナ競馬場)
Ⅲ.写真・グラビア・報道選集
1) 朝日新聞藤高特派員『虐殺の街ダッカを逃れて』(文藝春秋 1972 年 3 月号)
2) 臼井撮影写真(印軍と行動を共にした日本人写真家)(ダッカ解放戦争博物館提供)
3) アサヒグラフ『東パキスタン軍 無条件降伏 ダッカ陥落』(1971 年 12 月 31 日号)
4) 毎日グラフ『印・パに憎悪のツメ痕』(1972 年 1 月 23 日)
5) 朝日新聞『ベンガル人 23 人が亡命 神戸 「カラチ帰港こわい」』(1972 年 1 月 28 日)
I.論考
■1)日本とバングラデシュとの関係のはじまり
理事 太田清和
1.バングラデシュの日本へのアプローチ
(1)4月17日、ムジブナガル*でバングラデシュの独立と臨時政府の樹立を宣言する式典が行われた。時をおかず、バングラデシュ臨時政府のヌズルル・イスラム大統領代行より天皇宛てにバングラデシュ独立を伝える書簡が日本外務省に届いた。各国元首に同一内容の書簡が発出されているようであった。
(註*)ムジブナガル:クルナ管区で西部国境よりメヘルプール県内に1km入った村、ムジブルに因んで名付けられた。
(2)6月30日付けで、アーメド外相より愛知揆一外相あてに、6月22日のパリ援助国会合で対パキスタン援助のプレッジを見送り、援助国会議を延期したことを歓迎する書簡が届いた。これもパリ援助国メンバーに対し、同一内容で発出された書簡とみられる。
(3)8月1日には、ヌズルル・イスラム大統領代行より直接佐藤総理宛てに、ムジブル・ラーマン大統領の裁判を止めさせるよう求める電報を発出された。
2.パニ大使の訪日
(1)7月24日、フィリピン駐在のパニ・パキスタン大使(東パ出身)は卜部敏男大使を来訪し、本国より6月1日に帰任を命ぜられたが、諸事情を説明し、10月1日離任を認めてもらった。ロムロ外相に相談したところ、引き続きフィリピン滞在を認めてくれたと述べた。
9月14日、パニ大使はバングラデシュへの忠誠宣言を行い、フィリピン政府は、政治活動を行わないとの条件で同国の滞在を認めることとした。
(2)12月1日、卜部大使は訪日を希望したパニ大使に対し、政治活動をしないとの確約を得た上で観光ヴィザを発給し、竹中均一元総領事と会うように助言した。3日、訪日したパニはバングラデシュ代表であるとして、福田外相に面会を申入れ、同国の承認を得ようとした。
6日、印駐日大使は、法眼晋作外務審議官にガンディー親書を手交した際に、バングラデシュを代表して訪日のパニ大使に対する日本政府の態度に質したところがあった。法眼は、公式には一切関係を持たない方針であると伝えた。これに対し、印大使は、バングラデシュはまもなく現実の存在になるのであろうから、非公式にでも接触されては如何と思うと述べた。
3.在日東ベンガル人有志と茂木課長の会見
12月6日午後、ジャラールら在日東ベンガル人有志11名が、外務省茂木良三課長に面会を求めた。茂木がこれに応じたところ、ジャラール達は、日英両文の声明(11名全員署名)を手交し、日本国民の深い同情と理解を求めたいと述べた。また自分達は日本が東ベンガル住民に対しサイクロン被災の際に示した温かい支援に感謝するものであり、同声明に述べたことは、政治とは関係なく、自分達の真情を述べたものであるとした。同声明は、7500万の東ベンガル人の熱望と宿願を支持するよう訴える形を取っているが、バングラデシュという名称も使われていない。なおこの会見はプレスに公開の上行われた。声明の全文は下記の通り。
4.論考
パニ大使の訪日と在日東ベンガル人有志と茂木課長の会見とは表と裏の関係にあったのではなかろうか?
(1)12月3日に印パ全面戦争の突入により、バングラデシュの独立がみえるようになった。印とバングラデシュ臨時政府は、印のバングラデシュ承認に合わせて、日本の承認を求めようとした。パニ大使の後ろにはバングラデシュ臨時政府がおり、東京では印大使館、マスウッド、ジャラールたちが一体となって動いており、パニ大使などは、福田外相への面会を求めて外務省に掛け合った。しかしバングラデシュの承認は、パキスタンへの敵対行為となるので、外務省は、バングラデシュ代表との公式の面会には応じられない立場にあった。
(2)外務省(茂木課長)としては、バングラデシュの独立を見据え、水面下で接触し、対外的にシグナルを発したいと考えていた。とはいえ外務省の課長が、在日ベンガル人有志の要望に応じて、直ちに面会に応じるのは不自然である。難しいやりとりが予想される面会に、プレスを入れることも、外交常識ではありえない。そして声明は、実質的に日本にバングラデシュ承認を求めているにもかかわらず、『バングラデシュ』『独立』『承認』の用語は一切使用されていない。外務省が受領しても困らない声明文になっている。
(3)これは間を取り持った人物がいたはずである。おそらく諸般に通じた竹中元ダッカ総領事が、パニ大使の接触がうまくいっていないのを踏まえ、両者の間に入って知恵を出したのではなかろうか? 竹中と茂木との間で、「在日ベンガル人有志が茂木を往訪し、カドが立たない内容の声明を手交する」というシナリオですり合わせが出来ていたとみられる。こうして外務省(茂木課長)は、正面から承認を求めるパニ大使との面会には応えなかったが、東ベンガル人(バングラデシュ国民)へ寄り添う姿勢を、プレスを通じてアピールしたものとみられる。
記
在日東ベンガル人の声明
我々、在日東ベンガル人は、1971年3月25日以来、母国で起こっている、怖ろしい出来事に長い間苦しみ、憂慮してきました。
我々は、我々の正義のために闘っているわが同胞へ理解と同情を示された友好的日本国民に感謝しています。
選挙で過半数を制し、わが国民を代表する政党が弾圧され、われわれの希望と宿願を象徴する指導者を拘禁され、人質となっていることは世界が十分に知っていることであります。また罪無き、丸腰の民衆が云われなく虐殺されたことも良く知られていることであります。
今、私たちの闘いは最終段階に達しています。われわれは、これ以上黙っていることができません。われわれの国民への支持と連帯を表明する時が来ました。われわれは、われわれの運命を決定する闘いに、今起ちあがりました。われわれが自由に、名誉と威厳をもって生きていくことはわれわれの基本的権利であります。
われわれは、日本の政府と国民に、東ベンガルの7千500万人の熱望と宿願を支持するよう、またわれわれの民族目標を実現するためにわれわれの国民への支持をさらに広げて下さるよう訴えます。
われわれは、アジアの大国と日本国民がわれわれの希望と期待にそむくことはないと確信しています。われわれは、東ベンガルの人々の望みが満たされることだけが、現在の状況を解決するものと信じています。
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