日本バングラデシュ協会 メール・マガジン78号(2020年11月特集号)特集『サイクロン/高潮の被災と救援』 (1970 年 11 月) ーバングラデシュの独立に寄り添うー
日本バングラデシュ協会 メール・マガジン78号(2020年11月特集号)
特集『サイクロン/高潮の被災と救援』 (1970年11月)―バングラデシュの独立に寄り添う―
日本バングラデシュ協会の皆様へ
■目次
1)特別寄稿:『私はボラ島でサイクロン/高潮を体験した』
駐日バングラデシュ大使 シャハブッディン・アーメド
2)寄稿:『日本赤十字社による東パキスタン・サイクロン/高潮被災救援』
日本赤十字社事業局国際部 大山啓都
3)寄稿:『この世で悩み苦しむ人たちのお役に立てるのであれば』
佛所護念会教団
4)寄稿:『オイスカの東パキスタン・サイクロン被災への支援活動』
公益財団法人オイスカ 副理事長 廣瀬道男
5)サイクロン/高潮被災 新聞報道選集
50周年記念編集部
■1) 特別寄稿:『私はボラ島でサイクロン/高潮を体験した』
駐日バングラデシュ大使
シャハブッディン・アーメド
私は、ボラ島に生れ育った。私の一家は、メグナ川の河岸から、内陸を西側に約6km入ったところに住んでいた。1970年11月のサイクロンは、私の人生で最も恐ろしい体験の一つである。当時、私は10歳だった。
1.12日の夕方からサイクロンの暴風雨が強まってきた。家族は皆一階に集まっていた。突然家の周りに水が溢れ出てきた。屋内にも流れ込んできたので、皆、「これは危ない」と二階に駆け上がったところで、ドーッと津波が押し寄せてきた。家の中の水位がみるみるうちに上がり、我が家は膝の高さまで浸水した。幸いにも二階にまで上がってくることはなかった。その夜は、外では暴風雨が吹き荒れ、家の中は真っ暗な闇、階下では潮水が流れる音が聞こえ、生きた心地がしなかった。沿岸部に住む人たちは、一体どうなっているのだろうと心配したりもした。
2.翌13日の朝が明けると、我が家の周囲は全面にわたり水浸し状態であった。膝から腰の高さの水に浸かったままで、2~3日間は水が退かなかった。我が家は堅固でシッカリとした造りであったため、高潮にも持ち堪え押し流されずに済んだ。近隣の多くの家々が押し流されてしまった。水面上には、多数の人の遺体から、家畜の死骸、樹木、木切れ、草葉など、おびただしいものが浮き漂っていた。
3.ともかく生存者を助け、隣人、親戚、知人の安否を確認するのが先決であった。腰まで水に浸かりながら付近を探しまくったところ、伯父夫婦が死亡しているのを発見し、心が痛んだ。幸運にも。その子供たちは無事であった。伯父の家が津波で横倒しになり、子供たちは、横倒しになった家の上に何とか登ることが出来て助かったのである。紙一重で生と死とが分かれたのであった。
4.ボラ島は、東西を流れる大河に挟まれ、ベンガル湾に面したデルタ地帯で、全島の標高も平均1.8mである。高さ6mの高潮が沿岸部を襲い、全島(注:面積1,440km2、東京都の2/3の広さ)が水没してしまったのである。沿岸部に住む住民がどのような運命となったかは、神のみぞ知るところである。1970年のサイクロン/高潮はボラ島全体の島民の多くの命を奪い、島民達の生活を破壊しつくしたのである。
ところが、ボラ島に救援がなかなか来なかった。ボラ島民は1週間ほど、被災したまま放り出された状態が続いた。パキスタン軍が支援に来なかった。我が家には食糧があったので、食べつなぐことは出来た。とはいえ大変に辛い日々を送った。
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